はは、酒場めぐりでありません、ご了承ください~討ち入り・・・吉良邸~浅野上屋敷~泉岳寺
2004年から書いている(一応)ギター・フォークBlog『アコースティックギター生涯の1本』、そこで書いた「東京観光案内」カテゴリーの記事を地域別に整理しながら記事再掲していきます。そのうちに、東京関西の居酒屋・酒場のデータベースになればと思います。
この記事のカテゴリーは地域で括れないので、、、
カテゴリー「忠臣蔵」としましたシーズン的には去年の12月にアップしたらよかったですね。
たまたま、聖路加辺りで浅野家上屋敷跡の碑を見つけました、で、調べてみると“吉良邸”跡もあるようだし、もちろん泉岳寺は駅名にもなっています。
という事で、この日の記事は“忠臣蔵”史跡巡りです。またまた自転車での探訪です、この頃は本当によく自転車に乗っています。
【2005年12月17日の記事】
寒い日が続きます、なんか、風邪気味??熱っぽく、ボーっとしてます、風邪はひきはじめに治すのが一番、今日は家でじっとしていようかな
ちょっと過ぎてしまいましたが、12月14日は討ち入りの日でした。討ち入りと言えば分かりますよね。
元禄十五年(1702)12月14日深夜、 大石内蔵助を頭とする元赤穂浅野家家臣四十七名が吉良上野介の屋敷に討ち入り、 本懐を遂げた日です。
日本人はずっとこの話が好きなようです。ウチの奥さんは大好きです私はそうでもないのですが、それでもドラマとかがあれば観てしまうでしょうね。
ということで、せっかく東京にいるんだから、先日赤穂浪士縁の地を自転車で回ってみました。
まずは清澄通りを北へ、JR両国駅近くに吉良邸跡があります。
跡と言っても屋敷はなく、その場所に有志による小さい公園?と碑が立ってます。
近くに堀部安兵衛が吉良邸監視のために住んでいた跡地もあるようですが、これは見つかりませんでした
両国から浪士が引き上げた同じ道を南へ、万年橋を渡り、新大橋を渡り聖路加へ、今の聖路加病院の敷地内に浅野家上屋敷跡の碑があります。
本懐を果たした浪士たちがこの近くを通って泉岳寺を目指したと思います。もちろん、この屋敷にもう主君はいなかったわけですが・・・
江戸城松の廊下での刃傷で切腹した浅野内匠頭は泉岳寺の浅野家の墓に葬られていました。赤穂浪士一同は討ち入り後ただちに報告のために泉岳寺を目指したわけです。で、私も泉岳寺へ・・・銀座から新橋、そして第2京浜を一路南へ、泉岳寺へ到着。
四十七士は浅野家の墓の前に上野介の首を捧げ、焼香。今でも46名の個人墓があります。すごい事です。
屋根が付いているのが大石内蔵助と主税のお墓です。
あれ?47人のお墓ではなく、46人のお墓?
そうです、大石内蔵助は参加浪士の中で唯一の足軽:寺坂吉右衛門に密命を与え立ち去らせ、残りの46名の浪士が自首して、切腹したのです。寺坂吉右衛門については諸説あるようですが、いずれにせよ彼はその後も生き永らえ83歳の人生を全うしています。
彼のエピソードはNHKでドラマになってましたね。
(記事再掲ここまで)
分かりやすいなあ^^)
泉岳寺には、この後も奥さんと一緒にもう一度行きました、歴史がそのまま残っている、戦争で焼けなくてホントに良かったですね
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